205 c1 くま社長日記 Vol.152 「発見」
8月23日(木)23:59 自宅
昨日、中島公園にある、北海道立文学館にて開催されていた太宰の特別展が最終日を迎えた。
期間中、幾度も訪れたこの展覧会も、平日、日中とあれば、なかなかの不人気、いや余り認知されていたのではないかも知れないが、6月下旬から開催していたにも関わらず、僕も気が付いたのが7月に入ってからだったので、熱狂的なファンは無論の事、早い段階で見学に訪れていたに違いない。
いつも、空(す)いていた。
お陰で、妙なマニアと思われることなく、ゆっくりと、しかも、何度も順路を遡ってその日の入場料を3人前分は、観覧した。
最終日。
カナリ長い時間、滞在して、心残りのないように、じっくり見学していた。今回は展示物はもちろんの事、注目は矢張り、ヒューマンウォッチング。どんな人たちが見に来るものか。
トクと拝見、と決め込んだ。
最高齢は、失礼ながら拝見するに、70代後半の老夫婦。
いや、おじいさんは、多分、80を超えているだろう。
津島家の家計図を見ながら、オンタイムで太宰を知っていたであろう、その老夫婦は、とても感慨深く、初めて知った事も含めて、深い深い時間の流れを紐解くように、
そして過ぎ去った日々にやさしく問いかけるように、二人寄り沿いながら、かみ締めるように、ゆっくりと閲覧していた。
最低齢(こんな日本語は、ない。)は若い夫婦に連れられた、
ベビーカーに乗った、赤ちゃん。
ま、これは本人の意思で来場したわけではないだろうから勘定には入らぬか。
親に連れられた未就学児や小学生は除き、やはり女の子。
多分、学生さんか、なにか。若い女性が多かった。
また若い男の子も、来てたし、熱心に展示物を見ていた。
いやなに、再来年の2009年、生誕100年を迎える、日本の文学の中では、やはり評価が二分されるこの作家の人気は、こうである。
ある人にとって、太宰は無意味である。
しかし、ある人にとって、太宰は劇薬である。
これは、展示の端々に登場する、来場者のコメント。
来場者にアンケートのような形式で、自分にとっての太宰を思うとおりに書いてある、コメントがいたるところに貼ってあるのだ。
これが、最大の展示物だった、とも云える。
なかなかの評論、である。
最近、「おうちで眠っているピアノ、売ってください」と、云うキャッチフレーズで、某元プロ野球選手が笑顔で新聞広告に掲載されているのをよく、見る。
これは私見で、まったくの憶測であるから、無用な書き込みは控えていただく。
たぶん、アジアの急進国の裕福層、あるいは一歩手前の家庭に、これらのピアノは中古楽器として、売りさばかれているのでは、と、ボクは危惧している。
ギブ アンド テイク。
普遍の定石。
それはそれで、イイと思うよ。
でもね。
あなたが所有している、あなたの為に大枚ハタイて買った、あるいは買ってくれた(もらった)、物凄い想いの染込んだ財産です。殆んどの所有者はご自分でご自分の為に購入したのではない、でしょう。きっと。
ある人にとっては、それは見るのも嫌な思い出しかない、ただの木製の物体かもしれない。でもある人にとっては、それは叶わぬ想いをあなたに託し、とても辛い思いをして、そうしてあなたと夢を見た、ステキな思い出、かもしれない。
もとより、ボクには論じる権利もないですがね。
ボクが子供の頃の生家は、ボクと弟を育てるだけで精一杯の家庭でしたから、小学校にも音楽室と体育館に1台づつしかなかった(しかも両方ともアップライト!)ピアノを初めて見たときは、感動したものです。
ピアノに興味を持ったのは、どう云うきっかけだったか、まったく忘れてしまったけれども、父が拾ってきた古い足踏みオルガンを、無学ながら音楽が大好きだった母が、どう云ったようにだったか忘れたが、古ぼけ傾きかけたオンボロの木造の長屋みたような家の2階のボクら兄弟の
部屋でそのオルガンで「メリーさんのひつじ」を弾いてくれ、なんとなく音符と弾き方を教えてくれた。
小学校2年生くらいの頃だったと思う。
そのオルガンの音は、今も耳に残っている。
周りにもピアノを持っている家庭など、なかった。
中学に入り、こっそりと音楽室にもぐりこみ、ピアノをいじった。その頃、父が持っていたボロボロのガットギター(なんと、コロンビア製??)が押入れの奥からでてきて、ソイツをいじるようになっていた。
家にただひとつのラジカセについてきた、マイクロフォンのさきっちょを、のこぎりでぶっちぎり、線を半田付けしなおして、ギターのブリッジ近くに固定して、そのラジカセに繋いで鳴らした、生涯最初の偽エレキギターの音は、今も耳に焼き付いているし、感動も、忘れない。
ジョンのスタンドバイミーのスライドを真似してみた。
ハウスの一味唐辛子の空き瓶。
泣くほど、感動した。
ややしばらくしてバンドを組んだ。
DANNY BOYSと云う名前だ。
中学2年。
クラスの仲間とジャンケンをした。
負けた。
ベースを弾くことになった。
生まれて初めて、アルバイトをした。
中学生。
新聞配達です。
そうして、そのお金で初めて買ったベースギター。
円山の質流れの店で買った、グレコのバイオリンベース。
母が大好きだったビートルズの影響。
ポール・マッカートニー。
そんなに好きじゃなかった。
ジョンが好きだったし。
ちっちゃなグヤトーン製のベースアンプも、買った。
高校受験にわがままを云って、父に無理やり約束させてしまった。
公立高校に入れば、学費が安く済む。
だから私立の入学の差額で、ご褒美で、ベースアンプを
買ってもらう、と。
今考えたら、なんにも経済になってない。
やけくそで約束してくれた父には、いまもアタマがあがらない。ありがとうね。
中卒の両親にしてみたら、少ない親戚縁者で高校入学は誰もしたことがなかった。
無論、その子らにも、該当者がいなかった。
無学な一族だった。
まんまと、手に入れた。
高校時代は、あっと云う間の3年間だった。
大学は12単位しかとってないことになっている。
曰く、除籍だ。
親はどう思ったことだろう。
そして東京。
資金の為に、その親に買ってもらったベースアンプを売った。
上下併せて、15万円もしたのに、2万円だった。
悲しかった。
今も、どこかの誰かに、使われてりゃ、いいな。
27歳に自分でピアノを買った。
中古のアップライト。
36回ローン。
少しだけ真面目に練習した。
ほんのちょびっと、弾けるようになった。
おもいっきり、話がそれた。
その、新聞広告のハナシにもどそう。
日本ではそれだけ、ピアノが家庭に流通していたのだろう。
ピアノ、である。
高価、なのである。
アップライトだって、新品で買えば、なかなか高価なので
ある。況や、グランド、ともなれば、本当に高価なのである。
ボクが云いたいのは、それだけ、真剣にピアノを学んだ人々が居た、と云うこと。ボクの事じゃ、ないですよ。
日之出音楽事務所所属のHide-c.はお母さんがピアノの先生だった。
音楽を始めるきっかけは、まさにそれ、だった。
彼は最近、もう一度真剣にピアノに向き合う為に、札幌では有名な、音楽学校に入りなおした。
とても小さな子供たちが、とても難しい曲を難なく弾きこなし、それを目(ま)の当たりにして、とても刺激的な毎日だと、本人は語っている。
さて、この狭い日本に、一体どれだけのヴィルチュオーゾが埋もれているだろうか?
音楽大学を目指し、難関を突破し、そして激動の練習に次ぐ練習を重ねる。
しかし、そのほんの一握りの才能が、世に、ピアニストとして知られるようになるわけだが、ご想像の通り、残る大部分の才能は、この世間に、埋もれていくわけである。
昨年に引き続き、今年の夏の甲子園の決勝戦も天晴れな試合だった。逆転満塁本塁打、である。
毎日、毎日、とても言葉では言い表せない激しい練習に練習を重ねて、全国都道府県の代表校として、一同に結集する高校球児たちは、それぞれ、負けるわけがない、と信じて、チカラの限り戦って、そうして相手のチカラに飲み込まれ、敗退する。
それでおしまい?
名も無いピアニストたちよ、名も無い、球児たちよ。
何もしてこなかった、ボクにとって、あなたたちはどれだけ、偉大であるか。
きっと、社会に出て、なにか、生きてく上で、きっと、それは間違いなく、あなたの生き抜く為のアドバンテージであらんことを祈るばかりである。
広いこの世の中に、文学を愛して止まぬ、人物がいる。
それは、ほんのちょっと、ある文章に触れたきっかけをココロの拠所にできた、幸せな人物である。
ある人にとって、太宰は無意味である。
しかし、ある人にとって、太宰は劇薬である。
こんな評論を、こんな天晴れな評論を記述できる人物。
ボクは逆さになったって、かないっこ、ない。
名も無い、文士よ。
あなたは、素晴らしい。
そうして、ボクが云いたいことは、これだけの才能がまったく、埋もれているんだ、この世間っちゅーやつに。
埋もれる位のは、そもそも、才能って云わない?
そんなこと、云っちゃ、いけない。云えるはずが、ない。
だから、手が抜けない。
生きることに、まったく、手が抜けない。
ボクは何にも得手がないのだけれども、なんとか、いろんな人の支えでここまで、きた。
今度は、ボクがなにを出来るのか、と云うことじゃないか
と、最近思うのです。
謙虚に生きることが出来れば。
まったくまだまだ、とても、ボクには、難しいようです。
ボクが知らない(アタマ悪くて気づかない、だけ)うちにいろんなヒトに不愉快な思いや、がっかりさせるようなこと、散々してきたと思います。
冷たいの、かも。
なんにも考えて、ないのかも。
多分数十点に上る、太宰の写真。
ひとつひとつ見ていくと、幼いころの笑顔(作中ではこれをお道化、などと云っているが)と、死の寸前まで見せていた、三鷹の家での家族とのふれあいの中に見せた、笑顔は、おそらくなんにも変わらぬ、津島修治、そのものであったと、ボクは感じた。
特筆すべきは、旧制中学の頃の英語の授業で使用していた、ノオト。なんとも達筆な筆記体で綴られた英文のあるペイジの隅々に至るところに描かれた、イラストである。
ボクが心から愛して止まない、ジョンの少年時代の悪戯書きのイラストと、酷似しているのだ。
そのタッチ、あるいは題材の架空の男の横顔。
まさに、おんなじモノ、とまで云えるほど、酷似している。
なになに、太宰のこの頃の写真を、再度、見直した。
誰かに、似ている、と、思ったら、ジョン。
大きな鼻がすこし縦長の笑顔の真ん中に配置されている少し緑がかった、その古ぼけた笑顔の写真を見て、本当にそう、思った。
1940年生まれのジョン・レノン。
1909年生まれの太宰治。
40歳で凶弾に倒れた、ジョン。
39歳で入水自殺を遂げた、太宰。
1967年生まれのボクは、今年、40歳になった。
よかった。
ボクの鼻は、それほど、大きくはない。
まだまだ、生きるんだ。
世間に埋もれる運命でもね。
つまらない長文、あげく乱文。
ホント、才能が・・・・・・・。
お付き合い、恐縮です。
2007-08-24 01:26
Comments
2007-08-27 06:33 | kodow_voice